清浄山 禪興寺

和尚随筆

2019.02/28

和尚随筆

定期巡教課題論文 平成丗一年度推進テーマ「おかげさまの心」を公開しました。

定期巡教課題論文
平成丗一年度推進テーマ「おかげさまの心」
―たよらないのが仏さま・・・無依道人―
副題―人生の羅針盤― 
   台番3248 禪興寺 梅澤徹玄

【はじめに】

天空に光り輝く「北極星」は、自転を続ける地球の地軸のほぼ延長線上に位置する為、その中心点として不動であり、又、南半球では南十字星が代替され、航海上自らの位置を知る航海の目標として、必要不可欠な存在であった。(〔星の航海術〕スターナビゲーション)その後「羅針盤」が発明され、大航海時代を牽引した。

【無依(むえ)の道人】

臨済録〔*注1〕に曰く「唯、聴法無依の道人のみ有り、是諸仏の母なり。所以に仏は無依より生ず。(中略)若し是の如く見得せば、是真正の見解なり」と。「依」とは(よりすがる、もたれかかる、たのむ、たよる)〔*注2〕の意であるから、「何ものにも頼らない」ことが仏」であり、その仏こそ、目の前で儂の話を聴いているお前自身だ!それさえ心底納得できれば、自分の心の他に何も求める必要はない!と臨済は喝破する。

【自由とは?】

同「若し真正の見解を得ば、生死に染まず、居住自由なり」と。「自由」とは、「自らによって立つ」ことなり。鈴木大拙博士曰く〔*注3〕「禅は洞察によって心の心相に達し、心其物を修養し、心の解放を目的とする。(中略)若し何か禅の勧めるものがあるとするならば、それは自由である。凡ての不自由からの離脱である。(中略)[萬物帰一、一帰何處]禅は人の心の不羈自由を求める」と。

【肝心なことは、絶対に人に代わってもらえない】

わが師盛永宗興老師曰く〔*注4〕「禅寺でさせていることは、自分の身辺を単純化させていくこと、自分の頭の中を単純化してゆくことによって、自分が引きずり回されていたものから解放される。そして、引きずり回されていたために目に入ってこなかったものを、見えてくるようにする。そういう生活をさせるのです。」と。又、師は「現代は依託社会」であり、これが「増えていけばいくほど、人に代わってもらって生きて行けると勘違いする人が増えてくる」従って「人類の歴史の中で、救世主の出現を待望することが続いた」のであって、「これはおしっこを代わってもらおうという発想」であると。「皆がおしっこまで人にしてもらおう、という情けない根性を持っているから」詐欺商法が蔓延る。「ただ、生まれて来た時の素直な心、そのものだけで人生を送ってみれば、人に代わってもらえないことぐらいすぐに分かると直言される。
奇しくもアップル社の創設者で、天才的な経営者・亡きスティーブ・ジョブズ氏が後継者に遺した最後の言葉にはかくある。「私の人生は他人の目には成功の極みに映るだろうが、仕事を除けば喜びの少ない人生であった。」臨死の病床で人生の終焉に臨んでみれば、生涯を掛けて築いたはずの名誉や財産は色褪せ、何の意味も持たない。(死後に)「一緒に持っていける唯一のものは、愛情にあふれた思い出だけ」であり、「これこそが本当の豊かさ」である。「神は誰もの心の中に(中略)愛を感じさせるための『感覚』」を与えて下さった。「人生に限界はない。行きたいところに行きなさい。」「全てはあなたの心の中にある、すべてはあなたの手の中にあるのだから」と。なぜなら「あなたの代わりに病気になってくれる人」はいくらお金があっても「見つけることはできない」と、結論する。

【随処作主 立處皆真】

山田無文老師は著書〔*注5〕の中で「ただ、実在するのは、そこで今臨済の話を聴いているその心、何ものにも頼らぬ、絶対に自由な、お互いの中に確かにある心だけである。その心が仏を生み出すのである。」無依の道人とは、「衣を持たん素っ裸の人間だ。」「何もないやつがお互いの本心じゃ。それがわかることが真正の見解、正しい人生観」であり、「仏になる」こと、「お互いが、今、目の前で自由に使っておる、自我意識のないすべてを自由に受け入れていけるその心〔=一無位の真人=仏性*注6〕こそが生きた文殊さま」で「清浄光」だと断言される。続けて「清浄光」は同時に「無差別光」で「ものを差別して見ない心」は普賢菩薩であって、「みずから束縛をほどいて、あらゆるところに自由に解脱していく働きは観音三昧の法」であり、無分別光だと。然も此の三菩薩・光は互いに主となり、伴となって「一即三、三即一」、同時に現れて来る」のだ、と。「随処に主と作れば、立処皆真なり」の真髄であろう。

【羅針盤と北極星】

盛永宗興老師曰く〔*注4〕神様や仏さまに「参る」ということは、「世の中思うようにいかないのが当たり前じゃと反省して、無条件降伏して帰る」=「空っぽになる」からこそ、「いろんな困難な問題を、もう一度頑張り直そうと受け入れるようになる」のだ。「仏教というのは、あなた自身の中に生まれながらに自らを支える力」があり、「あなたの本当の救済は、あなた自身の中の仏がちゃんとなさる」と教えるのが仏教だと喝破される。この自らに内在する人生の羅針盤こそ、自ら寄って立つ仏心・仏性に外ならぬ。それは「生涯付き合って、使っても使っても、なお使い切れないほど役に立つ」と賞嘆する。
 では、一方人生で目指すべき北極星とは何であろうか?臨済録に曰く「無事是貴人 但造作すること莫れ 祇是平常なり」と。鎌田茂雄氏は説く〔*注7〕「『無事』ということは非常に中国的」で「中国人は、朝起きて太陽が上がれば畑に行って耕す。それで太陽が落ちて夜になれば帰って休むと。そしてご飯が喉へ通って、それに水が飲めればいいんだと。」このインドの「無我」でも、日本の「無心」でもない「中国の大地そのものから生えた」『無事』と言う俗語、生きた言葉で、誰にもわかることばを用いて、カァッと力強く断定したところに、正に臨済禅師の革命性の端的があり、「大地から足が出てきている宗教だ」とされる。
その大地には重力がある。羅針盤も正しい方角を指し示す為には、暫し揺れが収まらねばならぬ。人は自ら人生の方角を正しく定めるには、世間の全てを一旦放下して、心の重心を受け止め、感じとる、時間と場所と心の余裕を持たねばならぬ。即ち「坐禅」である。生活信条・第一―一日一度は静かに坐って、身と呼吸と心を調えましょう―
その頭上には、どんな北極星が臨まれよう。畢竟ずるに「四弘誓願文」の四文に尽きる。
「衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成」仏の永遠の、究極の願いは、「慈悲」である。宗興老師曰く〔*注4〕「自分が可愛いと思えば思うほど、幸福になって欲しいと思えば思うほど、その幸福になる種は他人が作ってあげられない。」「最後には、陰で涙を流しながら、何とか頑張ってくれ、何とか気付いてくれ、どうぞあの子が頑張ってこの苦難を抜け出しますようにと、祈らずにいられないという思いが」「慈悲」の中の「悲」であるとされる。
 釈尊曰く〔*注8〕「今、此の三界はみな是れ我(釈尊)が有なり。其中の衆生は、悉く是れ吾が子なり。而して今此の処は諸の患難多く、唯、我一人のみ能く救護を為すなり」と。
これこそ、無依の道人が自由自在にする「活溌溌地」の働きに外ならぬであろう。以上
 
*注1ー臨済録 朝比奈宗源訳注・岩波文庫
*注2―新漢語林
*注3禪の眞髄 大拙鈴木貞太郎著・大雄閣
*注4―盛永宗興老師講演録―禅・空っぽのままに生きるー・大法輪閣
*注5―臨済録上巻 山田無文著・禅文化研究所
*注6―注釈筆者
*注7―NHK教育テレビ「こころの時代」昭和六十年三月二十日放映
*注8―妙法蓮華経・譬喩品第三

PDFはこちら

一覧へもどる

和尚随筆

2019.02/28
和尚随筆

定期巡教課題論文 平成丗一年度推進テーマ「おかげさまの心」を公開しました。

定期巡教課題論文
平成丗一年度推進テーマ「おかげさまの心」
―たよらないのが仏さま・・・無依道人―
副題―人生の羅針盤― 
   台番3248 禪興寺 梅澤徹玄

【はじめに】

天空に光り輝く「北極星」は、自転を続ける地球の地軸のほぼ延長線上に位置する為、その中心点として不動であり、又、南半球では南十字星が代替され、航海上自らの位置を知る航海の目標として、必要不可欠な存在であった。(〔星の航海術〕スターナビゲーション)その後「羅針盤」が発明され、大航海時代を牽引した。

【無依(むえ)の道人】

臨済録〔*注1〕に曰く「唯、聴法無依の道人のみ有り、是諸仏の母なり。所以に仏は無依より生ず。(中略)若し是の如く見得せば、是真正の見解なり」と。「依」とは(よりすがる、もたれかかる、たのむ、たよる)〔*注2〕の意であるから、「何ものにも頼らない」ことが仏」であり、その仏こそ、目の前で儂の話を聴いているお前自身だ!それさえ心底納得できれば、自分の心の他に何も求める必要はない!と臨済は喝破する。

【自由とは?】

同「若し真正の見解を得ば、生死に染まず、居住自由なり」と。「自由」とは、「自らによって立つ」ことなり。鈴木大拙博士曰く〔*注3〕「禅は洞察によって心の心相に達し、心其物を修養し、心の解放を目的とする。(中略)若し何か禅の勧めるものがあるとするならば、それは自由である。凡ての不自由からの離脱である。(中略)[萬物帰一、一帰何處]禅は人の心の不羈自由を求める」と。

【肝心なことは、絶対に人に代わってもらえない】

わが師盛永宗興老師曰く〔*注4〕「禅寺でさせていることは、自分の身辺を単純化させていくこと、自分の頭の中を単純化してゆくことによって、自分が引きずり回されていたものから解放される。そして、引きずり回されていたために目に入ってこなかったものを、見えてくるようにする。そういう生活をさせるのです。」と。又、師は「現代は依託社会」であり、これが「増えていけばいくほど、人に代わってもらって生きて行けると勘違いする人が増えてくる」従って「人類の歴史の中で、救世主の出現を待望することが続いた」のであって、「これはおしっこを代わってもらおうという発想」であると。「皆がおしっこまで人にしてもらおう、という情けない根性を持っているから」詐欺商法が蔓延る。「ただ、生まれて来た時の素直な心、そのものだけで人生を送ってみれば、人に代わってもらえないことぐらいすぐに分かると直言される。
奇しくもアップル社の創設者で、天才的な経営者・亡きスティーブ・ジョブズ氏が後継者に遺した最後の言葉にはかくある。「私の人生は他人の目には成功の極みに映るだろうが、仕事を除けば喜びの少ない人生であった。」臨死の病床で人生の終焉に臨んでみれば、生涯を掛けて築いたはずの名誉や財産は色褪せ、何の意味も持たない。(死後に)「一緒に持っていける唯一のものは、愛情にあふれた思い出だけ」であり、「これこそが本当の豊かさ」である。「神は誰もの心の中に(中略)愛を感じさせるための『感覚』」を与えて下さった。「人生に限界はない。行きたいところに行きなさい。」「全てはあなたの心の中にある、すべてはあなたの手の中にあるのだから」と。なぜなら「あなたの代わりに病気になってくれる人」はいくらお金があっても「見つけることはできない」と、結論する。

【随処作主 立處皆真】

山田無文老師は著書〔*注5〕の中で「ただ、実在するのは、そこで今臨済の話を聴いているその心、何ものにも頼らぬ、絶対に自由な、お互いの中に確かにある心だけである。その心が仏を生み出すのである。」無依の道人とは、「衣を持たん素っ裸の人間だ。」「何もないやつがお互いの本心じゃ。それがわかることが真正の見解、正しい人生観」であり、「仏になる」こと、「お互いが、今、目の前で自由に使っておる、自我意識のないすべてを自由に受け入れていけるその心〔=一無位の真人=仏性*注6〕こそが生きた文殊さま」で「清浄光」だと断言される。続けて「清浄光」は同時に「無差別光」で「ものを差別して見ない心」は普賢菩薩であって、「みずから束縛をほどいて、あらゆるところに自由に解脱していく働きは観音三昧の法」であり、無分別光だと。然も此の三菩薩・光は互いに主となり、伴となって「一即三、三即一」、同時に現れて来る」のだ、と。「随処に主と作れば、立処皆真なり」の真髄であろう。

【羅針盤と北極星】

盛永宗興老師曰く〔*注4〕神様や仏さまに「参る」ということは、「世の中思うようにいかないのが当たり前じゃと反省して、無条件降伏して帰る」=「空っぽになる」からこそ、「いろんな困難な問題を、もう一度頑張り直そうと受け入れるようになる」のだ。「仏教というのは、あなた自身の中に生まれながらに自らを支える力」があり、「あなたの本当の救済は、あなた自身の中の仏がちゃんとなさる」と教えるのが仏教だと喝破される。この自らに内在する人生の羅針盤こそ、自ら寄って立つ仏心・仏性に外ならぬ。それは「生涯付き合って、使っても使っても、なお使い切れないほど役に立つ」と賞嘆する。
 では、一方人生で目指すべき北極星とは何であろうか?臨済録に曰く「無事是貴人 但造作すること莫れ 祇是平常なり」と。鎌田茂雄氏は説く〔*注7〕「『無事』ということは非常に中国的」で「中国人は、朝起きて太陽が上がれば畑に行って耕す。それで太陽が落ちて夜になれば帰って休むと。そしてご飯が喉へ通って、それに水が飲めればいいんだと。」このインドの「無我」でも、日本の「無心」でもない「中国の大地そのものから生えた」『無事』と言う俗語、生きた言葉で、誰にもわかることばを用いて、カァッと力強く断定したところに、正に臨済禅師の革命性の端的があり、「大地から足が出てきている宗教だ」とされる。
その大地には重力がある。羅針盤も正しい方角を指し示す為には、暫し揺れが収まらねばならぬ。人は自ら人生の方角を正しく定めるには、世間の全てを一旦放下して、心の重心を受け止め、感じとる、時間と場所と心の余裕を持たねばならぬ。即ち「坐禅」である。生活信条・第一―一日一度は静かに坐って、身と呼吸と心を調えましょう―
その頭上には、どんな北極星が臨まれよう。畢竟ずるに「四弘誓願文」の四文に尽きる。
「衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成」仏の永遠の、究極の願いは、「慈悲」である。宗興老師曰く〔*注4〕「自分が可愛いと思えば思うほど、幸福になって欲しいと思えば思うほど、その幸福になる種は他人が作ってあげられない。」「最後には、陰で涙を流しながら、何とか頑張ってくれ、何とか気付いてくれ、どうぞあの子が頑張ってこの苦難を抜け出しますようにと、祈らずにいられないという思いが」「慈悲」の中の「悲」であるとされる。
 釈尊曰く〔*注8〕「今、此の三界はみな是れ我(釈尊)が有なり。其中の衆生は、悉く是れ吾が子なり。而して今此の処は諸の患難多く、唯、我一人のみ能く救護を為すなり」と。
これこそ、無依の道人が自由自在にする「活溌溌地」の働きに外ならぬであろう。以上
 
*注1ー臨済録 朝比奈宗源訳注・岩波文庫
*注2―新漢語林
*注3禪の眞髄 大拙鈴木貞太郎著・大雄閣
*注4―盛永宗興老師講演録―禅・空っぽのままに生きるー・大法輪閣
*注5―臨済録上巻 山田無文著・禅文化研究所
*注6―注釈筆者
*注7―NHK教育テレビ「こころの時代」昭和六十年三月二十日放映
*注8―妙法蓮華経・譬喩品第三

PDFはこちら

< 一覧へ戻る

ページのトップに戻る