清浄山 禪興寺

和尚随筆

2015.09/24

和尚随筆

教化リーフレット原稿―「坐禅」

「坐禅」の「坐」の字を、よく見てみると、土の上に人が二人向き合っています。
坐禅は確か独りでするはず?にらめっこでもなし。さて、誰と誰が向き合っているのでしょう?
「禅とは心の名なり」と申します。
お釈迦様は約二千五百年前に実在の人物としてお生まれになりました。
その後、菩提樹の下で、坐禅の姿で瞑想に入り、この世の真理をお悟りになりました。
そのお悟りの心と全く等しく澄みきった心を、このわたくしも生まれながらにいただいていた、と気づくことが大切です。
けれど、私たちは日々の暮らしに追われ、自分の心と向き合う時間や場所がなかなか持てません。
自分自身の心が作り出した欲望や悩み・苦しみに迷い、翻弄されています。
自分で自分が嫌になり、自信がもてず、自分の未来や可能性を信じきれない時もあります。
心が傷つき、人を傷つけてしまうことも少なくありません。
では、三毒(*注1)に濁ってしまったわたしたちの心を、一杯の器の泥水にたとえて見ましょう。
この泥水をきれいにするにはどうしたらいいでしょう?泥水はガチャガチャと揺すり続けている限り、いつまでも濁った泥水です。
けれど、静かにそおっと放っておいたらどうでしょう?いつのまにか、澱(おり)が下に沈んで、上澄みが「さぁーっ」ときれいに澄んでゆきます。
生活信条―一日一度は静かに坐って、心と身と呼吸を調えましょう。
毎朝仏壇にお供えをして、手を合わせたら終わり、ではいけません。
それでは、禅宗の檀信徒としては、残念ながらいつまでたっても半人前です。
必ず毎朝引続き、坐禅を致しましょう。たとえ一日一分でも二分でも結構です。
そのまま正座でも、膝が痛ければ椅子でも構いません。まずは、しっかりと背筋を伸ばし、少しあごをひく。
つぎにお腹の息を深く長く鼻から吐いて、心に溜まった澱を沈めましょう。お腹の息を吐き切ったら、鼻から息を自然にお腹にもどしてやります。
これをゆっくり十回繰り返したら、もうそれだけで、毎日立派な一分の坐禅です。
一日の始まりに、生まれながらの清らかで澄みきった自分のこころに生まれかわり、向き合うことができるのです。
自分の奥底から湧き上がる生命(いのち)の息吹(いぶき)とひとつになって、今日を生きる喜びが感じられはずです。
一寸坐れば一寸の仏。一生続ければ、一生の仏。大地にどっかりと尻をすえ、わが調え(ととの)し心を宗(むね)(=生きる指針)として、一日一日を悔いなく生きることこそ「禅」であります。
注1―貪(むさ)ぼり・瞋(いか)り・痴(おろ)かさ

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和尚随筆

2015.09/24
和尚随筆

教化リーフレット原稿―「坐禅」

「坐禅」の「坐」の字を、よく見てみると、土の上に人が二人向き合っています。
坐禅は確か独りでするはず?にらめっこでもなし。さて、誰と誰が向き合っているのでしょう?
「禅とは心の名なり」と申します。
お釈迦様は約二千五百年前に実在の人物としてお生まれになりました。
その後、菩提樹の下で、坐禅の姿で瞑想に入り、この世の真理をお悟りになりました。
そのお悟りの心と全く等しく澄みきった心を、このわたくしも生まれながらにいただいていた、と気づくことが大切です。
けれど、私たちは日々の暮らしに追われ、自分の心と向き合う時間や場所がなかなか持てません。
自分自身の心が作り出した欲望や悩み・苦しみに迷い、翻弄されています。
自分で自分が嫌になり、自信がもてず、自分の未来や可能性を信じきれない時もあります。
心が傷つき、人を傷つけてしまうことも少なくありません。
では、三毒(*注1)に濁ってしまったわたしたちの心を、一杯の器の泥水にたとえて見ましょう。
この泥水をきれいにするにはどうしたらいいでしょう?泥水はガチャガチャと揺すり続けている限り、いつまでも濁った泥水です。
けれど、静かにそおっと放っておいたらどうでしょう?いつのまにか、澱(おり)が下に沈んで、上澄みが「さぁーっ」ときれいに澄んでゆきます。
生活信条―一日一度は静かに坐って、心と身と呼吸を調えましょう。
毎朝仏壇にお供えをして、手を合わせたら終わり、ではいけません。
それでは、禅宗の檀信徒としては、残念ながらいつまでたっても半人前です。
必ず毎朝引続き、坐禅を致しましょう。たとえ一日一分でも二分でも結構です。
そのまま正座でも、膝が痛ければ椅子でも構いません。まずは、しっかりと背筋を伸ばし、少しあごをひく。
つぎにお腹の息を深く長く鼻から吐いて、心に溜まった澱を沈めましょう。お腹の息を吐き切ったら、鼻から息を自然にお腹にもどしてやります。
これをゆっくり十回繰り返したら、もうそれだけで、毎日立派な一分の坐禅です。
一日の始まりに、生まれながらの清らかで澄みきった自分のこころに生まれかわり、向き合うことができるのです。
自分の奥底から湧き上がる生命(いのち)の息吹(いぶき)とひとつになって、今日を生きる喜びが感じられはずです。
一寸坐れば一寸の仏。一生続ければ、一生の仏。大地にどっかりと尻をすえ、わが調え(ととの)し心を宗(むね)(=生きる指針)として、一日一日を悔いなく生きることこそ「禅」であります。
注1―貪(むさ)ぼり・瞋(いか)り・痴(おろ)かさ

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